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どうやらうっかり眠りこけていたようである。 電源を切り忘れ、稼働したままの暖房のファンの音が響いている。咽喉もすっかり渇き切ってしまっていて、痛みすら感じる程だ。からだとすっかり同じ温度になったソファから起き上がると、凍えた空気が足元を伝ってひやりと露伴の体温を冷やす。 ぶるりとからだを震わせる。フローリングに落ちたヘアバンドを指先に引っ掛けて拾い上げ、窓の外を窺うと、なるほど寒いわけである。雪がちろちろと降り始めていた。葉の落ちた木々に薄らと白く積もるそれは、いったい何時から降っているのだろう。壁一面に並んだ背の高い本棚に隠れて見える時計を見遣ると、どうやら二時間近く眠ってしまっていたらしい。いつものように決められた締め切りよりずっと早くに漫画を描き上げ、それを編集部へと送ったところでソファに座ったのが原因だろう。程よくあたたかい室温に、思わず夢の世界へ誘われてしまったのだ。 ともあれ、まだ昼を少し過ぎたところである。寝起きでまだ腹の空かない露伴はキッチンへと向かい、昼飯の代わりにお湯を沸かして高級そうな缶から茶葉を取り出すと、沸かした湯をポットへと注いだ。立ち上がる湯気と共に茶葉がゆっくりと開いてゆき、良い香りが立ち込める。少々甘ったるいこの香りは、正直露伴の趣味ではない。いつかの貰い物であるのだが、一口だけでも口をつけて感想を言ってやるくらいの礼儀は弁えているつもりである。だので、最初は仕方なしに飲んでみたのだが、どっこい、これが露伴の舌を満足させたのだった。感想を言ってやろうと思っていた人物には、缶を手渡されてから一度も出会っていない。一週間ごとにきっかりと手紙が届くので、おそらく元気にやっているのだろう。しかし、人工的な紙からの情報だけでは熱が伝わってくるわけでもない。茶葉もそろそろ、缶の底が見える量になってきている。 優雅な一日であると思っていたのだが、どこか陰鬱とした空気が外界から窓の隙間を縫って入り込んできているようだ。カップに口をつけた露伴は、その甘ったるさに少しだけ眉を顰める。そして少しの苛立ちに舌を打つと、窓の外で奇妙に翻るマフラーの裾が映り込んだような気がした。今度こそ深く眉間に皺を寄せると、待っていましたといわんばかりに露伴邸のインターフォンが高らかに鳴り響いた。心なしかその音は弾んでいるようにも聞こえる。 キッチンからは玄関先が窺えるため、そこからちらりと覗き見た先には、まさにこの缶を露伴に手渡し、一週間ごとに律儀に手紙を送ってくる女――返事は今まで一度も送っていない――が、分厚いマフラーに口元を埋めてからだをぶるぶると震わせながら立っていた。埋まりきっていない鼻先が真っ赤に色付き、口元に引き上げ過ぎたマフラーには隙間が出来て真っ白な首元が露わになっている。 頭隠して何とやら。窓ガラス越しに吐き出した露伴の溜息は深い。漸く露伴がキッチンから覗いていることに気が付いたのか、寒さにぐっと寄っていた眉間の皺が一気になくなり、ぎゅう、と頑なに瞼に隠れていた目がだらしなく垂れ下がる。もこもことした手袋に覆われた両手を嬉しそうに掲げ、ぶんぶんと左右に振る様は、近所の子供とそう変わらない。腕を振る勢いでだんだんとからだが傾くのに本人は気が付いていないのか、そのまま玄関先の段差から転げ落ちそうになるまでその手を嬉しそうに振っていた。 露伴に言わせて”スットロイ”彼女は見ているだけで露伴を苛立たせることのできる天才だ。まさに性格を体現していると言っても過言ではない。 いつまでもここから寒そうにからだを震わせる彼女を見ているのも面白そうではあったが、それではいつか飽きてしまうので、露伴は渋々、と云った体で玄関の扉を開けた。 「……いらっしゃい、」 「せんせー!お久しぶりです!お仕事は終わってますよね?」 「だから来たんだろ。こうして仕事が終わったのを見計らって」 「はい、モチロンです!」 「君は?大学のレポートは提出できたのかい?」 「はい〜、ようやくです……って先生!お手紙送ったのにひとつも返してくれなかったです!」 「ああ。そうだな」 「ひどいです〜っ」 情けない顔をして露伴の腰辺りにひっついてくるの冷気を纏ったからだがあまりにも冷たく、露伴は思わず「うわ、」と声をあげた。 「わかった、わかった、いいからもうさっさと入れよ」 「ぎゃ!」 薄い肩をぞんざいに掴んで引っぺがし、半ば突き飛ばす様な形で家の中に招き入れると、おおよそ女らしくない叫びが小さな唇から零れた。玄関先に蹲るの背負ったバックパックが小刻みに揺れる。 「相変わらず、乱暴です、」 「うるさいな。家に入れてやっただけでも感謝して欲しいね」 「恋人なのに、扱いが康一くん以下……」 うう、と涙目で露伴を見上げると、手も貸さない恋人に更に眉を情けなく下げ、ゆっくりと立ち上がる。露伴よりも幾分も小さなは分厚いコートを羽織っていたが、コートを着ているというよりもコートに着られていると言った方がいい。どこぞの小動物を思わせるような体躯に、下がりきった眉が更に庇護欲を掻き立てられる。もごもごとマフラーの下で不平不満をまき散らすものの、露伴の見下すような視線に耐えきれなかったのか、もう一度うう、と呻くように唇をきゅっと結ぶと、これもまたボアの付いたブーツを脱いで大人しく露伴邸へと足を踏み入れたのだった。 大学の授業が終わって直接寄ったのだろう。後ろを向いた彼女の背中には大量の葉がくっついている。スットロイ彼女の事である。雪に足をとられて茂みにでも突っ込んだろうことは明白だった。葉を全身にくっつけていないところを見ると、自分が見えている範囲だけの葉を叩き落として綺麗になったつもりでいたのだろうが、大間違いである。 「君ねェ、前方確認もままならないのはわかるけどさぁ、後ろも確認ぐらいしなよ」 「え!?」 バックパックをソファの上に降ろそうとしていたが中腰の状態で固まり、慌てて背中に手を回す。 「そ、外で落としてきます……」 「あぁ、いい、いい」 「え?」 「こういうのもある意味漫画のドジキャラに通ずるものがあるな……今度恋愛要素を取り入れようと思うんだが、君の頭の中を覗かせてもらおう」 オトガイに手を当て、指先でそこを叩きながら露伴はさも当然と言うようにヘブンズ・ドアーを発現させると、の肩を掴んだ。 「ぎゃあああ!何をするデスカ!」 「何って……見ればわかるだろ」 「きょ、許可してません!」 「君の許可はいらない。ぼくがどうするかだ」 「プライバシーの侵害です!」 「ぼくの家にいる時点で君のプライバシーなんてあってないようなものだ」 「ぅうっ……デカリシーってものが、ないですよ!」 「デカ尻?君の事か?」 「むっきー!」 「むっきー、を口で言うやつなんて初めて見たぞ。いい、いいぞ!益々覗いてみたくなった!」 自分の発言がどんどん露伴を煽って行くことに気付いていないのか、は顔を林檎のように赤く染め上げて抵抗する。マフラーに埋まった部分も同じく赤いのだろうか。そう思った露伴はマフラーの結び目を掴んで片手で解くと、それをソファに投げ捨てた。露わになった真っ白なはずの首は、見事真っ赤に染まっている。 周囲の見解では露伴は変態の部類に入るという。人類皆変態だろうが、とも思わないでもないが、露伴にとって他人の見解なぞどうでもいい。漫画のリアリティを突き詰めるならば、なんだってできるし、そのことで変態だなんだと言われようが毛の生えたような露伴の心臓には何の影響もない。しかし、が困っていたり目尻に涙を浮かべていたりする姿を見ると胸が轟くのは確かであるので、そういう意味で変態だと言われれば弁明の余地もない。 「き、嫌いになります!」 「ああ、そう」 「……う、嘘です」 「泣くなら言うなよ」 「嘘でも言いたくない言葉でした、」 「はいはい」 ぐしぐしと目元をきつく擦りながらは続ける。 「……露伴先生は」 「うん」 「……蜘蛛を食べちゃうし、」 「食べてない、舐めたんだ」 「子供相手にじゃんけんで必死になるし、」 「相手がスタンド使いだったんだ、仕方ないだろう」 「チンチロリンで指切り落としちゃうし、」 「というか、何故その話を君が知っている?仗助だろう、仗助だな!?」 「でも、そんなイカレたところも魅力的なんですー!うう〜っ、」 「泣くなよ。面倒臭いな」 「か、彼女に向かってめんどくさい……」 「どうだっていいけど、いい加減コートぐらい脱げよ。ほら」 手を差し出せばぐずりと鼻を啜りながらはコートを露伴に預ける。ハンガーにコートをかけてやりながら、いつもなら部屋の本棚を見上げるはずのの動かない背を見遣った。 露伴邸に来ると習慣付いているのか、それとも他国の文化を学ぶ彼女の好奇心からか、一定時間本棚から離れなくなる。最悪な時は書籍の一つに手を伸ばした時だ。本の虫となった彼女は、その内容を吸収しようといくら露伴が珍しく構い倒そうと云う姿勢でいても気付きやしないのであった。 だというのに今日はそんな気配すらなく、コートを掛け終る露伴のことをじぃっと眺めている。熱を孕んだ瞳がまるみを帯びていくのを、露伴は感じていた。 「で?」 「え?」 「今日は本を借りに来たんじゃあないと見ていいかい」 「はい……レポート終わったし、先生と一緒にいたいと思ったんです」 「ふーん」 「冷たいです」 「いつも通りだろう」 「そんなところも大好きです」 「すきすき大好きって、君は小学生かい?」 「そ、そんなことは……!」 「何故焦る」 両手を前に突出し、わたわたと左右に振り回す。挙動が可笑しいのは平生からではあるが、こと露伴の事となると制御が利かなくなるのが面白い。振られる真っ白な指先には、人工的な色味はまるでない。それが逆に生々しく彼女を表している気がして、露伴はまた胸が疼くのを感じた。 「こんなに先生の事が好き過ぎて、わたしいつか先生症候群で死んでしまうのでは……?」 「……もう呆れてモノも言えないよ」 「はっ!まさか先生、ヘブンズドアーで先生にべた惚れになるように書きこんだのでは?」 「君は馬鹿か?そんなことしてぼくに何の得がある?」 「うわーん!ひどい!」 「ひどくない、ひどくない」 どうでもいいからさっさと見せろ。そういった圧力があるのか否か、が後ずさりを始める。引き攣った表情がまさしく露伴の好む物であったので、それはもう普段のつれなさはどこへやら、満面の笑みを湛えた露伴に追い詰められていく小動物という図が出来上がっていた。 の脹脛が背後のソファに触れたその瞬間、露伴は彼女の手をぐっと引いてその身を自身の胸元へ寄せると、そのまま背後へと押し倒す様に体重をかけた。倒れ込むの背には高級なソファの感覚。それに覆いかぶさる露伴の表情が、明かりの点いた室内で陰りとなって良く見えない。反射的に両手を目の前に掲げたの腕が、容赦なくペラペラと紙のように捲り上げられていく。露伴のヘブンズ・ドアーはページをはぐり返す様にバラバラとページを捲って行き、そして行き着く場所へとたどり着いたのか、じっと動かなくなってしまった。まさか本当に露伴が自分にヘブンズ・ドアーをかけるとは露にも思わなかっただが、これで彼に対しての逃げ道がなくなってしまったということである。あけっぴろげになった自身でも計りきれない露伴への想いが読まれていると考えるだけで、心が震える。 ぐっと瞼をきつく結んだの耳に届くのは、露伴の愉快そうな笑い声である。羞恥で顔を赤く染めたが露伴を睨む頃にはもうヘブンズ・ドアーは解かれていた。 「や、やっぱり!読みましたね……!」 「いいや、僕は何も“読んでいない”さ」 きょとん、との瞳が丸みを帯びる。林檎のような頬をしたまま、意外だとでもいうような表情の彼女に、ふつふつと悪戯心が芽吹く。疑心暗鬼な表情で露伴を窺うようにしたから仰ぎ見ていたの、キメの柔らかい桃色の首筋に向かって噛みついた。ぐぅ、と驚きで詰まるようになった喉を押さえつけるように噛みついた部分に唇を押し当てる。 「ひぃいい」 「……あのねぇ、キミ、本当色気も何もあったもんじゃあないな」 「い、いだい、」 「はァ〜」 いい加減、風船のガスが抜けるように気持ちが萎える。露伴はからだを起こすと、本棚から本を一冊抜き出してそれをの膝に落とす様に投げ置いた。 「これでも呼んで勉強でもするんだな」 「なんです?これ?」 「偉大なる先人たちの教え、時に自己満足と自己顕示欲に塗れた言葉……つまり格言とか名言さ」 さほど厚みのないそれを手に取って、ぱらぱらとページを捲り始める彼女に背を向けキッチンへと向かう。残り少ない缶の中身は全て使い切ってしまおう。その源が露伴の目の前にいるのだから大事にとっておく必要などない。ダイニングテーブルの上に置きっぱなしだった缶を開け、残った茶葉をポットに落とす。空になった缶は棚に戻し、茶葉が開くまでの間、露伴は先程の間抜け面を思い出しては口元をゆるませた。 にヘブンズ・ドアーをかけたのはこれが初めてだ。そうそう何か余程のことが無い限り能力は使わないが、彼女は能力で中身を読まずとも気持ちが表に現れすぎている。読んだところで胸やけを起こしてしまうだろうことは容易に想像できた。だので、先の言葉通り、露伴は何も”読んでいない”のだ。 「……キスの意味も知らない奴はいやだね、ほんと」 激しく何かをぶつける音が仕事部屋から聞こえる。次いで唸り声が。予想通りの反応に満足するように露伴は口元に笑みを湛えると、部屋に向かってソファに蹲るを覗き込んだ。 「ドイツ文学も学んでいるんじゃあなかったか?」 「はい、」 「有名だろう、この詩は」 床に落とされ少し寄れたページを掲げる。原文となった詩はオーストリアの劇作家が『接吻』という脚本の中で使用した台詞だ。ごく一部の人間には有名ではあるが、それを彼女が知っている確率は低いだろうと露伴は考えていた。だからヘブンズ・ドアーで書きこんだのだ。露伴がキッチンへと向かった際にこのページを開くように、と。そして彼女は期待通りの反応を披露してくれたのである。 愛の言葉のなんたるかなど、さして興味もないものだ。必要であるかと問われれば、まあ必要なのだろう。それが表面だけを象ったモノでなければの話だが。 「よ、欲望って……先生、」 「なんだよ」 「……ひねてます」 「そこは情熱的だと言ってくれよ」 言えば、は林檎の頬を両手で押さえて口元をだらしなく緩め、露伴に向かって両手を伸ばす。触れた肌のやわい感覚に、露伴は思わず熱いな、と思った。紙のような温度ではない。生身の人間の、ただの恋人の温度がここにはある。 あれだけどこかひやりとしていた室内は暑さを感じる程だ。部屋には紅茶の香りが漂っている。香りに酔わされたのかもしれない。単純、純粋一辺倒なを、ただただ欲しいと思うくらいには。 |